イノベーションのフレームワークに関する私論

小型ハードディスク装置は、クリステンセンいうところの「単純で、低価格で、性能も低い」ことを特徴とする破壊的イノベーションではない。私が企業研究者としてのキャリアを踏み出したのは、ハードディスクのR&D分野であった。ハードディスクの高密度化と高速化に最も関係するヘッドとディスクのインターフェースが私の専門分野であった。その立場からクリステンセンのハードディスク装置に関するイノベーションの議論を見ると、いささかの違和感を覚える。

14インチのハードディスクが主流だった時に現れた8インチディスクとそれに続く、5.25インチや3.5インチのハードディスク装置が、それぞれの上位の大口径ディスク装置を駆逐していった現象を、クリステンセンは彼の言うところの破壊的イノベーションの代表例だとして紹介している。小口径のディスク装置が出現した時、既存のメーカは、その性能の低さだけを見て、自分たちのビジネスに脅威ではないと判断し、それを無視した。この判断が、彼らが市場から追い出された原因だとクリステンセンは主張している。その上で、破壊的イノベーションを特徴付けるのは「単純で、低価格で、性能も低い」であり、このような製品やサービスが現われた時には、既存のプレーヤは警戒すべきであるとも述べている。
果たしてそうなのだろうか? ハードディスクにおける小型化というのは、技術的には見るべきところが無いのだろうか? また、破壊的イノベーションを特徴付ける「単純で、低価格で、性能も低い」な製品やサービスが現われた時には、既存のプレーヤは警戒すべきであるともいっているが、そのような製品やサービスの開発した新興企業には、株式市場やベンチャーがファンドは無条件に資金を提供するだろうか? もし、あなたが企業の経営者やベンチャーファンドの責任者で、「私たちは、単純で安くて性能の低い新しい装置を開発しました。これは既存の製品に対する破壊的イノベーションです。これを商品化したいので資金を提供してください」などという申し出があった時、あなたは資金を提供するだろうか・・・。
ハードディスクは、最先端の磁気記録技術と制御技術、機械・機構技術の融合の結晶である。高速で回転するディスクの上に数10nmの気体潤滑膜を介して浮動ヘッドを浮上させ、漏れ磁束によって情報のリードライトをする。さらに電磁モータの原理によるアクチュエータにより、ミクロンオーダーの幅のトラックにぴたりとヘッドを追従させる。これがハードディスクである。高記録密度化には、ヘッドとディスクの隙間の微小化によるビットの微小化とアクチュエータの位置決め精度の向上によるトラック追従誤差の微小化が、高転送速度化と高アクセス速度化にはディスクの高回転数化とアクチュエータの移動速度の高速化が必須である。これらを実現する上で、ディスクの小口径化や機構の小型化は技術的な必然であり、合理的な解なのである。
小型化がハードディスク装置にとって合理的な解であるのは、技術的な面だけではない。クリステンッセンが明確に書いているわけではないので、あくまで想像ではあるが、ハードディスクの大容量化がマーケットのニーズだと考えているところにクリステンセンのもうひとつの大きな過ちがあるように思える。デスクトップやラップトップのPCしか使ったことのないユーザならいざしらず、ミッションクリティカルな情報システムにおいては、ハードディスク装置の分散化は信頼性だけでなく、保守とも含めたオペレーションの面からも必然なのである。非常に大型で大容量なハードディスク数台で構成されているファイル記憶装置と、適度な容量な小型ディスクが数多くスタックされたファイル記憶装置のどちらがシステム的に優れているか? 使いやすいか? 自明であろう。
すなわち、ハードディスクにおける小型化は、技術的に合理的なだけでなく、マーケット的にも合理的な解なのである。言い方をかえれば、技術的(自然科学的)に合理的でかつマーケット(社会科学的)にも合理的であったからこそ、小型ハードディスクはイノベーション足り得たのだ。これは他の分野でもあてはまる。例えば、破壊的イノベーションの典型例とも見える発泡酒は、税制や消費者心理といった社会科学的の側面と製造方法という技術の面での合理性を持っている。また、ソフト開発技法であるイクストリーム・プログラミング等の設計・コーディングとユーザテストを同時並行的に進めていくやり方は、技術とマーケットの合理性を同時に満足させようという試みにも見える。このあたりについての詳細は9月下旬のITECセミナーで発表する予定である。